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「鎖国」、「聖徳大使」が 小・中学の歴史から消える!? [時事]

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文部科学省によると、小中学校の時期学習指導要領の改訂案では、小中学校の社会科から「鎖国」と「聖徳太子」の表記が消えるようです。

YOMUURI ONLINEより引用
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文部科学省が14日に公表した次期学習指導要領の改定案では、小中学校の社会科で「鎖国」の表記をやめ、「幕府の対外政策」に改める。文科省は中学歴史でも、「聖徳太子」が没後100年以上たって付いた呼称だとして「厩戸王(うまやどのおう)」に変える。
 文科省によると、江戸幕府は長崎でオランダや中国との交易を許し、薩摩(鹿児島県)、対馬(長崎県)、松前(北海道)でも外交と貿易が行われていた。完全に国を閉ざしていたわけではないため、当時の実態に即して表記する。
 「鎖国」は1801年、ドイツ人医師の著書の一部が和訳され、「鎖国論」と名づけられたことから広まったといい、文科省の担当者は「幕府の政策に関し、鎖国という言葉は使われていなかった」としている。これに対し、「開国」という語は、欧米諸国との関係を表す際に使われていたため、現状のまま残す。
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近年、歴史学界では「鎖国見直し論」が盛んになっていたようですね。

幕府は、長崎、対馬、薩摩、松前 を窓口として中国、オランダ、蝦夷地と交易し、朝鮮、琉球からは使節を迎えていた、という実情に、「鎖国」という表現が合わない、という事が論点らしいです。

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長崎港図に描かれた出島及び唐人屋敷(左)。シイボルト著『NIPPON』より

でも、そんなこと、私が小中学校時代から習っていましたよ。
貿易を一般に開放せず、幕府が独占していたのですから、幕府関係者以外から見れば、やっぱり「鎖国」だと思うのですが。

明治時代になって、幕府の「鎖国」という政策を、欧米諸国に比べて近代化が遅れた原因として否定することが文明開化の原動力になった、というスマートな説明がしにくくなってしまうじゃないですか。

「聖徳太子」が没後の名称で、生前の名前が「厩戸王」であった
という事も習っていたと思います。「聖徳太子」を消す必要があるのかなぁ。
個人的にはちょっと寂しい気がします。

そういえば、何年か前に、鎌倉幕府成立時の年号も
1192年から1185年に変えられていますね。

これも、源頼朝が征夷大将軍に任命された1192年ではなく、壇ノ浦の戦いで平家が滅亡し、実質的な支配が頼朝に移ることにより、鎌倉幕府の基礎ができた1185年を、鎌倉幕府成立時とした方が適切である、という歴史学界の解釈の推移によるものでした。

いやぁ、なんだか新しい歴史の教科書が気になってきました。
ちなみに、1185年鎌倉幕府成立の語呂合わせ
「いい屋号だね、鎌倉幕府」というのはどうです?
すみません、蛇足でした。


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